スターフィッシュ

Ⅰ.ヒトデか?クモか?

「ヒトデはクモよりなぜ強い」というベストセラーがあります。本書の中で著者は、上に立つ者の命令で全体が動くトップダウンの組織をクモ型組織と呼び、権限が分散された組織をヒトデ型組織と呼んでいます。

ヒトデは、体の一部分が切断され失われたときに再生をする能力を持っています。真っ二つに切られても死なないどころか、二つに再生して生き延びる生命力があるのです。また、ヒトデの中には自発的に体を分断し、分断した部分を再生させることにより増殖する種も存在します。一方クモは、頭をピンで刺されればたちどころに死んでしまいます。

上に紹介した本は、ビジネスマン向けの組織論の本ですが、教会に当てはめて考えることもできると思います。私たちがモデルにすべきはクモ型の教会でしょうか?それともヒトデ型の教会でしょうか?今日は、聖書の教える教会のモデルからいっしょに学びたいと思います。

Ⅱ.エルサレムから地の果てへ

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1:8)

復活されたイエス様が天に帰られる前に弟子たちに語られたことばです。イエス様が願っておられたのは、エルサレムで始まった神の国の働きが、弟子たちによって地域、文化、民族を超えて地の果てにまで広がっていくことでした。ところが、弟子たちは一向にエルサレムから出て行こうとはしませんでした。使徒たちの関心が、急激に増加した信徒たちの必要を満たすことに向けられていたからです(使徒の働き6:1~6)。

エルサレムの外に広がる宣教の働きは、ステパノの殉教に端を発した激しい迫害によって予期しないかたちで始まりました。宣教の熱意に駆られ使徒たち少数のリーダーが、イエス様の命令に従って計画的、戦略的に始めたものではありません。

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。」(使徒の働き8:1)
「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。」(使徒の働き8:4)

使徒には「遣わされたもの」という意味があります。神様に遣わされて出て行くことが彼らの使命であるはずなのですが、彼らは信徒たちが散らされていった迫害の後もずっとエルサレムに留まり続けていました。

エルサレムから始まった最初の宣教の働きは、財産を失い故郷から追放された無名の信徒たちによるものでした。迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、ついにはアンテオケにまで進んで行き、そこでギリシャ人にも福音を伝えるようになったのです。このことが使徒の働きに記されています。異邦人宣教の拠点となるアンテオケ教会は、この信徒たちによって開拓された教会です。
神様は迫害を用いて、無数の「遣わされた者」たちを起こされ、彼らを通して神の国を広げ、いくつもの教会をたて上げられたのです。初代の教会はどこを切断されても再生し、増殖し続ける「ヒトデ型の教会」であったと言うことができます。

Ⅲ.イエス様の弟子作り

イエス様は宣教の働きにおいて、意図的に弟子たちを小さなグループに分けて派遣されました。(ルカの福音書10章)地上での限られた時間の中で、天の父から託されたすべての村と町に福音を伝えるためには、弟子たちの助けを必要としていたのです。復活された後、弟子たちにご自身を現わされたイエス様は、弟子たちとのこの関係について、次のように語られました。

イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネの福音書20:21)

1.自律的な小さな交わり(コイノニア)

大きな集まりには大きな集まりの良さがありますが、小さな集まり(スモールグループ)でなければ、深い関係を築くことはできません。イエス様は小さな交わりに関して次のように語っておられます。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイの福音書18:20)

教会の交わり(コイノニア)に求められる最も大切な要素の一つは、その交わりが自律的(強いられたのではない自発的)な交わりであることです。同様に、お互いに自分の実情を正直に話せる関係(アカウンタビリティ)があることも大切な要素です。自分の受けた恵みや祝福を分かち合うことも大切ですが、弱さや失敗や罪を隠さずに話せるかどうか、どんなことでも安心して話せる関係を築けるかどうかが問われます。そのような関係を築けるならば、お互いのための祈り合うときに、その祈りが深く届くようになるはずです。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(ヨハネの手紙第一1:7)

自律的な小さな交わりにつながる一人一人が、神様とのまた神の家族との正直で親しい交わりの中に生きるときに、教会にはヒトデのようにどこを分断されても再生する生命力が与えられます。

2.キリストを証しする生き方(ライフスタイル)

初代教会の弟子たちは「この道の者」と呼ばれていました。「この道の者」とは、ユダヤ人がつけた弟子たちに対する蔑称(軽蔑を込めた呼び名)です。しかし同時に、「この道の者」という呼び名はキリストに従って堂々と生きた弟子たちの姿を端的に表しています。神の国は、神を愛し隣人を愛するという彼らの臆することのない生き方「生きる道」を通して広がっていったからです。

イエス様の教えは「エルサレムの会堂に留まってずっとそこで奉仕しなさい」という内向きの教えではなく、「どこまでも出ていってそこで出会う人々を愛しなさい」という外向きの教えです。弟子たちが、神を愛し人を愛する生き方によってキリストを証ししていくときに、その周囲(家庭、職場、地域)に神の国が広がっていきます。

イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。
どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」(マタイの福音書13:31~32)

ヒトデは、一見固そうな外見に反して柔軟に体を変形させ、信じられないほど小さな隙間に入り込む能力を持っています。生き方を通して証しする弟子たちは、小さな隙間を見つけ出しそこから入り込み、そこに神の国を広げ豊かに実を結んでいく柔軟な能力が与えられます。

3.弟子作りのサイクル

弟子と訳されているギリシャ語マテーテースは「学ぶ者」を意味します。キリストの弟子とはキリストの姿から学び、学んだことを行う人を指しています。キリストはご自身を遣わされた天の父を愛し、失われた人々を愛して探し出し、友となり、友となったその人々をご自身の弟子とされました。キリストの姿を間近に見て学んだ彼らもまた神と人を愛する者、弟子を作る者となるためです。

キリストの弟子とは「神を愛し、人を愛し、キリストの弟子を作る人」のことです。初代教会の宣教を通して、神の国が急速に広がっていったのは、愛に動機付けられた弟子作りのサイクルが教会にあったからです。

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。(マタイの福音書20:28)

弟子作りとは、その人を良き牧者であるイエス様につなげることであって、自分の弟子を作ることではありません。その理解がないと弟子作りは間違った方向に進んでしまいます。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:18~20)

上に述べたように、ある種のヒトデは自発的に体を分断し、分断した部分を再生させることにより増殖を繰り返します。それができるのは分断された部分が本体と同じ再生のDNAを持っているからです。

Ⅳ.ヒトデ型の教会を目指して

今学んだように、ステパノの迫害以降の初代教会は、どこを切っても再生し増殖するヒトデ型の教会でした。無数の自律的な小さな交わりによって形成され、そこにつながる弟子たちが復活の証人として生き、その生き方によって神の国を広げ、弟子が弟子を生み出すDNAによって増殖を繰り返していったのです。そこには、小さなからし種が大きな木に成長したのと同じ原則が働いています。弟子たちに注がれた聖霊を通して神のいのち(DNA)が流れていたのです。神のいのちの流れを阻むものを一つ一つ取り除いていくことがヒトデ型の教会につながる道だと思います。

ヒトデのことを英語でスターフィッシュといいますが、ヒトデ型の教会よりはスターフィッシュ型の教会のといった方がかっこよく聞こえるかもしれませんね☺

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