なぜ世界でこれほど多くの人々が聖書を読んでいるのか、不思議に思われたことはありませんか?初めて聖書を読まれる方たちは、厚い聖書のどこから読み始めたらよいのか戸惑われると思います。今の時代にはそぐわない本だと感じる方たちもいることでしょう。クリスチャンであっても聖書を通読することに難しさを覚える方たちもおられると思います。私たちは、できるだけ多くの方たちに聖書に興味をもって楽しく読んでいただきたいと願っています。
なぜ世界でこれほど多くの人々が聖書を読んでいるのでしょうか?その答えには、いくつかの重要なポイントが織り込まれています。
聖書を読むことは、神様がどのような方であるかを学ぶことです。聖書には、人生、人間関係、仕事など、私たちの人生にかかわるすべてのことについて、神のメッセージが記されています。聖書は、神が人間と、これまでどのように関わってこられたか、今、関わっておられるか、これから関わろうとされておられるかを記しています。また、聖書は、神がどれほど人間を大切にしておられるかを伝えています。さらに、聖書は、どのようにしたら私たちが神と個人的な関係を持つことができるかを明確に説明しています。
神が、聖書を通して与える知識、真理、そして希望は読む者を神に近づけます。クリスチャンでない方にとっても聖書を読むことは有益です。なぜなら、聖書は神がすべての人のために与えてくださった本だからです。

聖書は、変わることのない神のことばです
聖書は、読む人の人生に力強く働きかける書物です。歴史の中で、他のどの本よりも多くの部数を売り上げています。聖書のある部分は1,500以上の言語に翻訳されており、他の多くの言語への翻訳が今も続いています。多くの人々の人生が聖書との出会いによって変えられてきました。
聖書が完成したのは、約2,000年前のことですが、それ以来、聖書は歴史のすべての試練に打ち勝ってきました。イエスは聖書について、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」(マタイ24章35節)と語っています。その言葉が真実であることは歴史が証明しています。聖書は、最初に書かれた時と同じように、今でも、それを読む人々の人生に変化を起こしています。
聖書は、神の霊感を受け、神を知り、神に従った数十人の著者によって書かれました。聖書には、66冊の本があります。歴史の物語、箴言、預言、律法、系図、個人的な手紙、礼拝、 恋愛、哀悼に焦点を当てた詩など、さまざまなジャンルで 書かれています。
旧約聖書は、最初の39冊で構成され、神によって選ばれ、神と契約を結んだにもかかわらず、イスラエルの民が神に反抗し続けた歴史が記されています。新約聖書は27冊から成り、イエスの生涯、死、復活に関する4つの記述から始まります。そこから新約聖書は、福音がどのように世界中に広まったか、また、弟子たちがどのようなメッセージを伝え、福音を広めたかについて記しています。
聖書全体を通して織り込まれているのは、神の贖いの御業です。それぞれの書物は、神が、イエスを通して、打ちひしがれ絶望した人々を救い出し、ご自身との関係を回復させるという大いなる救いの計画を指し示しています。イエスが登場するのは新約聖書になってからですが、旧約聖書のさまざまな預言、約束、予兆にイエスの到来に対する期待を感じ取ることができます。
聖書を、複数の著者が同じ包括的なテーマを念頭において書いた一つの物語とみなすことで、聖書に統一性が生まれます。次に聖書の一節を読むときには、その文章に目を通し、それがどのようにイエスと結びついているのかを考えみてください。
なぜ聖書を読む必要があるのでしょうか?
聖書を読むことには、歴史的、文化的な意義があり、また価値があります。しかし、本当に読むべき理由はそれだけではありません。それ以上に重要なことは、聖書が、今日、あなたの人生に直接影響を与える力を持っていることです。ここでは、聖書を読むべき14の有益な理由を紹介します。
1.聖書は、神がどのような方かを私たちに教えます
主は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」 (出エジプト記34:6-7)
神は忍耐、愛、慈しみ、正義、知恵に満ちた方です。全知全能であり、すべての創造主です。聖書の各書巻は、神のご性質を、人間が理解できるように記述しています。聖書はおもに神が善なる存在であることを示す物語であり、このことを念頭に置いて読むと、文中の他の部分が生き生きとしたものになります。読んでいるうちに、無意識に自分を聖書の主人公にしてしまうことがありますが、主人公は今も昔も神様なのです。
2.聖書には、私たちの日常生活の指針となる教えがあります
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。(2テモテ3:16)
聖書は、特に新約聖書において、人生のための実践的な知恵に満ちています。どの書簡も、神の御心に適う生き方をするようにと、読者に求めています。そこには著者たちの共通した願いが込められています。親としてのあり方、結婚生活の成功、仕事への取り組み方、家族への配慮、赦しと愛についてなど、人生の助けとなる多くの教えが書かれています。
たとえ、その内容が、私たちのものとは異なる文化や歴史的状況と関連するものであったとしても、その根底には、現代の日常生活で助けとなる実践的な原則があるのです。エペソ人への手紙はその良い例です。日常生活の中で聖書のことばをどのように適応するかについて多く語られています。ぜひ読んでみてください。
3.聖書は、私たちにどのように祈るべきかを教えます
さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みにあわせないでください。』」 (ルカ11:1-4)
福音書には、イエスが祈ったという記述がたくさんあります。イエスは、天の父と話したいことがあれば、いつでも、どんな状況でも祈られました。弟子たちは、イエスがいつも祈っている姿を見ていました。私たちも同様にイエスの姿と祈りから、どのように祈るべきかを学ぶことができます。上に引用した「主の祈り」は、祈りを学ぶ際に従うべき素晴らしい模範となる祈りです。この祈りを自分自身で祈り、自分の願いを神さまに届けてみてください。
4. 聖書は、私たちに福音がどのようなものかを教えます
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ人への手紙6章23節)
福音とは、神が愛する対象として人間を創造されたこと、その人間が神を拒絶したこと、その結果壊れてしまったご自身と人間との関係、またこの世界を回復するために、神がどのように働かれて来たかを伝える物語です。福音の本質は、イエスの物語にあります。福音を知ることは、神との関係を持つために不可欠です。福音はすべてイエスに関するものであり、聖書全体が歴史上の最も重要な時であるイエスの生涯に焦点を当てているのです。
5. 聖書は、私たちがどのように福音を伝えるべきかを教えます
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)
聖書の主要なメッセージは福音に集中しているだけでなく、福音をどのように他の人々に伝えるべきかについても指示を与えています。上に引用した箇所は「大宣教命令」と呼ばれ、イエスが弟子たちに語った最後の言葉の一つです。
イエスの命令を聞いた後、弟子たちは教会で福音を語り、出会った人々にイエスのことを話し、あらゆる背景を持つ人々にイエスのことを教えました。神は、すべてのクリスチャンに、日々の生活の中で、この「大宣教命令」に応えていくように求めておられます。
6. 聖書は、私たちがどのように神を信頼すべきか教えます
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。 (箴言3:5-6)
神への信頼を学ぶことは、生涯のプロセスです。自分のやり方を放棄し、神のやり方に従っていくことは、一朝一夕にできることではありませんし、神もそれを望んでおられるとは思えません。神は、私たちが、毎日ご自分の近くに来て、ご自分に寄り添い、真理のことばである聖書を繰り返し読むことを望んでおられます。
7. 聖書を通して、神は私たちに御心を示してくださいます
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:1-2)
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ人への手紙5:16-18)
「神様は私の人生に何を望んでいるのだろう」と考えたことはありますか?また、「どのような道を歩めばいいのだろう?」と思ったことはありませんか?一つ目は人生に関する大きな問いかけであり、二つ目は個別の問いかけです。神の御心に言及した聖書箇所はたくさんありますが、どのような問いかけに対しても、聖書は、私たちの考えを神の御心と一致させることに答えがあると教えています。しかし、どのように一致させることができるのでしょう。神のみことばを読み、神の与える喜びの中に生き、常に祈り、自分の人生に与えられた恵みに感謝することを通してです。私たちが聖書のことばと祈りを通して神との交わる時に、神は私たちを御心を示してくださいます。
8. 聖書は、私たちに対する神の約束に満ちています
主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。 (申命記31:8)
聖書は私たちを力づける多くの約束で満ちています。この一節もその一つです。私たちに与えられているアイデンティティや働き、そこにある希望を確認する上でも、不安や恐れに対処し、見えない敵と立ち向かう上でも、聖句を覚えることはとても益です。神の約束を思い出し、告白することで、私たちの考えや気持ちがどのように変化するか、確かめてみてください。
9. 聖書の記事には、歴史的、考古学的な裏付けがあります
そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 (ルカ2:1-4)
聖書は歴史を記録し、その歴史物語をより広い歴史的文脈の中で位置づけています。旧約聖書では、特にその書物が書かれた時代の重要な場所や出来事、支配者について言及しています。
上の聖書箇所 は、イエスの生涯に焦点を当てたルカ福音書の第2章にあり、イエスの誕生の実際の歴史的背景を明らかにしています。
キリスト教の歴史的、考古学的な裏付けに関心のある方には「ナザレのイエスは神の子か?」をお勧めします。著書のリー・ストロベルは1980年当時シカゴ・トリビューン紙の記者として活躍していました。キリスト教信仰に懐疑的であった彼は、妻がクリスチャンになったことを機に、キリスト教の真偽を調査を始めます。無神論者のジャーナリストの視点から、神学者、考古学者、歴史学者、心理学者など権威ある専門家達にインタビュー繰り返し、その中で、キリスト教の核心触れる疑問が紐解かれていきます。学術的、また霊的探究のすえに、彼はキリストを主として受け入れ、クリスチャンとして歩み始めます。
10. 聖書は、私たちにどのように赦すべきかを教えます
無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。(エペソ4:31-32)
「イエスはあなたの罪を赦すために十字架で死なれた」これは、福音が伝える大切なメッセージの一つです。イエスの犠牲の死は、罪を赦される方である神の本質的な一面を現わしています。聖書が赦しについて多くのことを教えているのは、この神のご性質から出たことです。赦しに関する多くの聖句は、クリスチャンであるないにかかわらず、すべての人々にとって有益です。こころからの赦しは、その人を神に近づけるからです。私たちが、だれかを赦そうとする時に、神は私たちに、赦す力を与えてくださいます。
11. 聖書は、私たちに真理を教えます
真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。あなたのことばは真理です。(ヨハネ17:17)
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)
「神は真理である」これは、聖書全体を通して語られている、神のご性質のもう一つの側面です。「真理は相対的なものにすぎない」「どこに真理を求めればよいかわからない」と言う人たちもいます。多くの人たちは、世間にあふれる情報や彼らの興味を引く個人的な意見から影響を受けています。しかし、これらの情報や意見は時間の経過とともに変わってしまいます。
一方、聖書は普遍的な真理が見出される唯一の書物です。真摯な動機で、聖書を読むときに、神はその人に、真理を明らかにしてくださいます。旧約聖書の箴言は、人生の知恵が書かれ書巻です。もしあなたが聖書の真理を求めているのなら、ここから始めるのもよいでしょう。
人生の知恵が詰まった旧約聖書の箴言は、神と人との関係の中で、私たちがどのように生きるべきか教えています。日々のディボーションにも有益な書簡です。
12. 聖書は、私たちの人生に関わる大きな問いに答えます
主よ、なぜあなたは遠く離れて立ち苦しみのときに身を隠されるのですか。 (詩篇10:1)
詩篇は聖書の歌集であり、そこには人生の大きな問いが繰り返し投げかけられています。神は、私たちの怒りや悲しみを受け止めてくださる方です。御子を十字架にかけられたからこそ、神は私たち人間の葛藤を理解することがおできになるのです。神は、私たちが苦しんでいるときに、聖書に慰めを見出すことを望んでおられます。混乱しているならば、遠慮なくそれを神に訴えることができるのです。詩篇の著者たちは、神に対する疑いや怒り、混乱した感情を神ご自身にぶつけています。ところが、神はそのような彼らを、愛と忍耐をもって接し、受け入れているのです。
私たちは、人生の大きな疑問に対する答えを、聖書のさまざまな書巻の中に見出すことができます。神は、しばしば、ご自身が選ばれた人々の人生に苦難や試練が臨むことを許されました。それは、彼らが、その困難な状況を通して、神との関係を見出し、神が備えられた救いの計画を知り、神が約束された恵みと希望の中に生きるためです。
創世記37-50章に記されているヨセフの生涯は、神の選びと神が許された苦難、そして神がもたらした回復と恵みを顕著に物語っています。神がヨセフの受けた激しい痛みを癒され、回復されたのち、ヨセフは神のご計画の意味を知り、神が約束された恵みの中を歩むようになります。
13. 文化的な関連性がある
昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。 (伝道者の書1:9)
聖書の様々な文化的側面を学ぶことはとても興味深いことですが、最初から最後まで、愛、嫉妬、疑い、混乱、信頼、苦難、喪失、結婚、誘惑、鬱、不安、幸福について書かれているのです。このように挙げたらきりがないほどです。人は常に人であるため、「日の下には新しいものは一つもない」のです。しかし、感謝なことに、神様は常に人々を救い出すために働いておられるのです。
14. 聖書は、神がどれほど私たちを愛しているかを教えます
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。 (1ヨハネ4:7-8)
神は私たちを愛しておられます。それに付け加えることは何もありません。神の愛を信じきれずにもがいてもいいですし、感じられなくてもかまわないのです。ただ、それを真理として受け止めることが大切です。上で引用した聖句が語るように「神は愛である」が事実であるなら、私たちにどのような意味をもつのでしょうか。また、どうすれば神の愛を体験できるのでしょうか。
聖書には愛に関する聖句が300以上あります。その聖句を読みながら、黙想してみましょう。一つひとつの聖句があなたに、どのように語りかけてくるのか、また、あなたの神に対する見方が変わるのか、新しい発見があるのか、自分自身に問いかけてみてください。
聖書は神があなたに与えた本です
聖書を読むべき14の理由について確認しました。このうちのどの理由が、あなたのこころに訴えたでしょうか。聖書を読む意欲を常に保つことは難しいかもしれません。上にあげた14の理由の一つでも二つでも、あなたが聖書を読み続けることの助けになれば幸いです。