グレイスハウスでは、神の家族がお互いに仕え合い、家庭や職場、置かれた場所で人々に仕え、キリストの姿を現わすことがなにより大切な、また自然な奉仕だと考えています。教会のプログラムやイベントに関わる奉仕、事務的なミーティングも必要でしょう。しかし、そのことによって、お互いと関わる時間が犠牲になってしまうとしたら、本末転倒だと思います。私たちは、できる限り、交わりを中心としたシンプルな教会でありたいと願っています。聖書が教えている奉仕の本来の目的は私たちの(夫婦、親子、教会、地域との)関係を建てあげることだからです。奉仕のための奉仕になってしまうときに、私たちは本来の目的を見失ってしまいます。
一方で、私たちは、メンバーから自発的に何かの活動をしたいという声が上がり、教会として一致が与えられるなら、時間と労力をかけて、いっしょにその働きを進めていきたいと願っています。大切なのは、神様の語りかけと、その語りかけに自発的に答えたいと願う動機、そして一致が私たちにあるかどうかです。もし、それらがそろっているならば、その奉仕や働きには、継続性が生まれてきます。チャレンジがあっても充実感があり、楽しめるからです。反対に、義務的な奉仕は、どこかで私たちを疲弊させてしまいます。私たちが願っているのは、一人ひとりのユニークな賜物が豊かに用いられる、新しい奉仕や働きが自発的に生まれてくることです。
神の家族とともに食事をし、痛みと喜びを分かち合い、お互いのために祈り、神様に感謝をささげ、周囲の人々のために祈り、家族を愛し、地域に仕え、福音を伝え、神の国を広げていく、私たちは、そのために与えられた時間を使うべきです。これらはすべて、小さなグループでなければできないことです。私たちが願っているのは、神の家族としてお互いに仕え合い、家庭や職場や地域でキリストの愛を現わす小さなグループが一つでも多く生まれてくることです。
聖書の教える奉仕とは、私たちが、どこであっても、王であるキリストに仕え、周囲の人々に仕え、キリストを証しすることです。私たちが神の家族に仕え、家庭や職場や地域で人々に仕え、キリストを証しするときに、神の栄光が現わされ神の国が広がっていく、私たちはそう信じています。
その一方で、人々に仕えるということは、この世と迎合することではありません。たとえ反対されたり、理解を得られなかったり、あるいは拒絶(迫害)されたとしても、キリストの愛をもって赦し、愛し、仕えるようにと聖書は教えています。神の国を広げていくことにまさる奉仕や働きはありません。
◆ペテロ第一の手紙4章10節
4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。