礼拝

礼拝に関して、新約聖書が強調しているのは、クリスチャン生き方です。旧約聖書の礼拝が律法の規定によって厳密に定められていたのに対し、新約聖書では、礼拝を、自分を日々、神にささげて生きることであると教えています。また、新約聖書は神の家族がともに集まって礼拝することの大切さを教えていますが、いつ、どこで、どのように礼拝を持つかということには、とらわれていません。

聖書で礼拝を意味する主要語、ヘブライ語シャハーとギリシャ語プロスクネオは、いずれも「ひれ伏す」を意味する言葉です。つまり、礼拝とは、天の父の愛と聖さ、すべてを超越した偉大さを認めて、こころから敬い、自分自身を全面的に明け渡しささげることを意味します。同時にそれは私たちが、自分の弱さと罪深さを認め、イエス・キリストを通して、赦しを受け取り、神の子どもとして恵みの中を生きることを意味します。礼拝とはクリスチャンに与えられている特権であり、生き方でなのです。

イエス様ご自身も次のように語っておられます。

◆ヨハネの福音書4章23節~24節
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。

私たちは、いつでもどこでも、たとえ困難な状況の中でも礼拝者として生きる教会、キリストの弟子として生きる教会でありたいと願っています。グレイスハウスは、日曜日に持たれる会堂での集まりも大切にしていますが、義務のようには考えていません。神の家族とともに礼拝したいと願う人々がともに集まるのが本来の姿であると考えるからです。どこであっても、導かれた場所で、小さなグループで集まり、ともに人生を分かち合い、祈り合い、みことばを分かち合い、礼拝するする人々の中に教会の本来の姿があると考えています。

教会と訳された聖書の言葉はギリシャ語のエクレシアです。エクレシアは「神によって召しだされた人々の家族的な集まり(共同体)」を意味します。聖書は、教会を「キリストのからだ」とも呼んでいます。私たちは、日曜日にだけ人々を集めようとする教会ではなく、たとえ少人数であっても、いつでもどこでも集まりたいと願う教会を目指しています。さらに、人々が出て行って、新しい教会を生み出す教会を目指しています。

使徒の働きには、迫害の中で福音を語り、散らされた先々で教会を開拓した弟子たちの姿が記されています。それらの教会のほとんどは家の教会でした。彼らは迫害の中で危険を犯して集まっていました。 また、世界には、迫害の中で、公に集まることが許されない多くのクリスチャンたちがいますが、彼らは、隠れた場所に集まって日曜日に限らず礼拝しています。彼らが危険を冒してまでそうするのは、神の家族とともに集まって、造り主である神様を礼拝したいという願いを持っているからです。

他のなによりも天の父を愛し、どこにいても天の父との関係を優先して生きることが礼拝です。神様を愛することがなければ、私たちは、本当の意味で、家族(夫や妻、親や子ども)や友人たちを愛することはできません。どこにいても神様が私たちの生活の中心におられること、そして、私たち一人一人が神様とまた神の家族と深くつながっていることが、礼拝者として生きることの中心にあると思います。

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