五役者か?多様な働きか?
福音派の世界では、新約聖書の時代の終わりに聖霊の賜物が停止したと考える終焉論に立つグループの間で、新約聖書の聖霊の賜物が今日の宣教に不可欠であるという理解が広がってきました。同時に、奇跡的な賜物が教会に回復されるとともに、神はエペソ人への手紙4章11節にある五役者の働きを回復されるのか否かという議論も生じるようになりました。神学者の間では、四役者と訳した方が良いとの意見もあります。しかし、宣教の働きの最も良い定義は、五役者の働きでも四役者の働きでもなく、多様な働きです。エペソ4:12はすべての聖徒が宣教の働きに召されていることを示し、1コリント12:28-30とローマ12:6-8はエペソ4:11、12の定義を超えた宣教の側面を提示しています。
こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。(エペソ人への手紙4章11節~12節)
近年、エペソ人への手紙4章11節が強調されていますが、12節は軽視されているように見えます。 新約聖書は、すべての信者の働きに重きを置いています。プロテスタント宗教改革は、万民祭司という聖書の真理を捉え直しました。歴史の中で、聖霊の働きによる宣教が燎原の火のように世界中に広がったのは、聖霊の賜物によるすべての信徒の働きがあったからです。聖書は、教会に、指導的な賜物が与えられているのは、一部の人の高揚のためではなく、神のすべての民が召されている宣教のための備えであると教えています。
使徒的教会とは?
現代の伝道者、牧師、教師の正当性については、比較的疑問が持たれていません。しかし、現代の使徒を認め、使徒的という言葉を使うことを提唱する人々もいます。彼らは、そうすることで教会が新約聖書の理想的な姿に近づくと信じています。
歴史的には、①聖職者の継承を初代十二使徒まで遡ろうとする教会(カトリック、聖公会など)、②神が現代に使徒職を回復されると主張する教会(新使徒運動や五役者を主張する教会)、③使徒たちが教えたこと、つまり新約聖書の教義を教えることによって使徒的であると主張する教会(ほとんどのプロテスタントのグループ)などがあげられます。したがって、ほとんどのキリスト教の教派は、ある意味で自分たちの教会を使徒的だと考えていることになります。使徒的と言う言葉をどう定義するかによって、教会の立ち位置が変わってきます。私たちは③の理解に立っています。
使徒職は継承されるのか?
使徒たちが初代教会で確立された指導者であったにもかかわらず、新約聖書は、彼らの交代や継続のための規定を定めていません。イエスを裏切ったユダの空席を補って以降、使徒継承が取り上げられていないことも、考慮すべき点です。ヘロデによって処刑されたゼベダイの子ヤコブ(ヨハネの兄弟)の後任を選ぼうとする試みもありませんでした(使徒12:2)。新約聖書には、キリスト自身による最初の任命以外には、使徒の任命に関する記述はありません。しかしその一方で、牧会書簡は、通常、慎重に資質を備えた長老・監督・執事を任命するよう、その選定の基準を示しています。
初代教会では、復活された主に個人的に召され、使徒として任命された人々以外に対しても、時々、使徒という言葉を用いていました。しかし、これらの場合、「依頼者に代わって正式な任務に就く代表者を派遣する」という一般的な意味で使用されています。学者たちは、前者を「キリストの使徒」と後者を「諸教会の使徒」として区別しています。
現代でも使徒的な働きをする人々がいますが、彼らは、「イエス・キリストの使徒」たちのように、直接復活した主を見たり、主から任命されたりすることはなく、正典である聖書に自分の教えを加えることもできません。また、新約聖書は将来の使徒を任命するための指針を提示していません。したがって、私たちは、現代において、そのような特異な権威を与えられた使徒職が、教会が使徒的であるために不可欠な要素であるとは考えません。また聖書が、使徒職の継承や回復を支持しているとは考えません。
初代教会の時代に、使徒を自称する人々が教会を混乱させていました。パウロは、このような人々に対して、次のように語っています。「ある人たちが自分たちで誇りとしていることについて、私たちと同じだ(使徒)と認められる機会を求めている」、「こういう者たちは偽使徒、人を欺く働き人であり、キリストの使徒に変装している」、さらに彼らを「光の御使いに変装したサタン」(2コリント11:12-14)と結びつけて厳しく警告しています。現代においても、使徒と自称し、他の信者を支配しコントロールしようとする人々がいます。往々にして、そのような指導者は、自分たちの言葉や決定に異議を唱えられない、より権威主義的な構造を好みます。その一方で、自分が導くべき信徒や他の霊的指導者たちと信頼ある関係を築こうとはしません。
使徒という称号は、軽々しく与えられるべきではありません。歴史的に見ても、使徒的働きをした人々は、霊的に高く評価され、生涯を通して誠実に歩み、多くの犠牲をはらい、宣教の活動において大きな影響力を持つ人々でした。彼らが使徒と呼ばれることを求めなかったことにも目を向けるべきです。
新約の預言者と預言の賜物について
新約聖書の中で、「預言者」の活動は「使徒」の活動と密接に結びついています(エペソ4:11)。パウロは彼らの役割を次のように重要視しています。「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち…を備えてくださいました。」(1コリント12:28)。「(教会は)使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」(エペソ2:20)使徒とともに、預言者は教会の基礎となる時代の補完的な賜物であったことが分かります。
新約聖書の記述から、預言者たちが、①諸教会において、監督や長老のようには、指導的立場に任命されていなかったこと、②しかし、教会に対して、使徒や長老と共に霊的影響力を行使していたこと、 ③預言者の信頼性が、聖書と使徒の教えに裏付けられたものであったこと、④ 教会指導者階層の一部として、預言者の資格を与えたり任命したりする規定は存在しないことが分かります。
使徒の働きは、すべての信者が聖霊の力を受けて、復活した主イエス・キリストの預言的な証人となったことをテーマにして書かれています。(使徒1:8)。このことを裏付けるように、ヨハネは「イエスの証は預言の霊である」(黙示録19:10)と記しています。新約聖書は、すべての信者が広い意味で普遍的な預言者職に任命されいること、一つまたは複数の霊的な賜物が与えられていることを教えています。
預言的働きとは、信者が御霊の油注ぎのもとに、力づけ、励まし、慰めるために語ることです(1コリント14:3)。すべての預言は、慎重に吟味されなければなりません(1コリント14:29)。預言が当たっていても、その教理が聖書の真理から外れている場合は、その預言者は偽物です。預言が偽りであると証明された場合、その人は偽預言者であるという結論に至ります(申命記18:19-22)。
使徒、預言者の称号にいて
私たちは、誤った解釈を避けるために、また、権威の乱用を避けるために、特定の人を使徒や預言者という称号で呼ぶことはしません。一方で、教会の歴史の中で多くの働き人が、使徒的、預言者的な働きを担ってきたことを認めます。使徒的な働きは、通常、未伝道地域や未伝道民族の間で新しい領域を開拓する文脈で起こります。世界に無数の教会が開拓されてきたのは、使徒的な働きがなければ成し遂げられなかったことです。使徒的な働きをした人々の中には、歴史の教科書に名前を見つけることのできる有名な人々いますが、多くは無名のクリスチャンたちです。
働きを担う人が肩書に意味を持たせるのであって、肩書がその人や その働きを作るのではありません。イエスは弟子たちに、肩書を求めることを明確に警告されました(マタイ23:8-12)。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(マタイ20:25-28)。
※米国アセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の論考(立ち位置)を参考にしています。
→英語サイトリンク
→翻訳文全文を読む(パスワード)