私たちは、預言を今の時代も有効な超自然的な聖霊の賜物の一つして理解しています。聖霊が預言的メッセージを通して私たちに語られることがあると信じます。同時に私たちは、教会や個人に語られるすべての預言や啓示が、聖書に照らし合わせて、吟味されるべきことを強調します。
神が預言を通して私たちに注意を促し、また慰め励まされることもあると信じます。しかし、私たちの必要とする多くの慰めや励ましは、聖書の中にすでに語られています。神様から啓示や預言によって慰めを受けようとする前に、私たちは聖書のことばで自分を養い、互いに慰め合い、励まし合うべきだと考えます。そして、生活のすべての場面で、み言葉を思い起こし、神に語りかけ、耳を傾け、聖霊とともに歩むことに意識を向けるべきです。
旧約聖書の預言
旧約聖書に記されている預言は神の民に悔い改めを迫る厳しい内容のものが大半です。確かに、遠い将来の回復や繁栄について語っている預言もありますが、神の民が通過しなければならない苦難に関して多く語られています。 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、サムエル、ダビデ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、彼らは神から直接語りかけを受け、神様のご計画の中で特別に用いられた信仰の偉人たちですが、人生の大半を神の厳しい取り扱いを受けて過ごしました。神は彼らをとどまりたくないところにとどまらせ、行きたくないところに送り出し、合いたくない人々に合わせ、語りたくないことを語らせたのです。
メシアに関する預言
メシアに関する預言はどうでしょうか?聖書は救い主が受けなければならない苦難に焦点をあてて預言しています。そこに描かれているのは従順に自分のいのちを差し出す生贄の小羊です。人々が期待するような英雄の姿はそこにはありません。救い主が王として帰ってこられるのは、歴史の終わりに起こることだからです。
新約聖書の預言
新約聖書は預言に関してどのように語っているでしょうか?主イエスが弟子たちの将来について語った時、彼らのミニストリーの繁栄や成功を約束したでしょうか?主イエスが語られたのは、弟子たちが通過しなければならない苦難や迫害、そして殉教の死です。使徒の働きで聖霊が啓示によって弟子たちに伝えた内容の多くは宣教に関わるものであり、励ましが与えられたことも記録されていますが、その多くが彼らが払わなければならない犠牲について言及しています。
現代の警戒すべき”預言“
ことさらに繁栄や成功を語る”預言”、私たちの願望に答えるような”預言”は警戒すべきだと思います。とくに職業や結婚など人生の選択に関わる”預言”も注意すべきです。私たちは欺かれやすい存在だからです。多くの場合、私たちの関心は自分の願望や成功、繁栄に向けられています。そこに問題の根があります。
聖書は安易に神の名を用いて語ることをきびしく戒めています。神のことばである聖書を毎日読み、自分を養い、祈りを通して直接天の父と語り合い、天の父の語りかけに耳を傾けにていくべきです。聖書全体が語っているメッセージを理解せずに、誰かを通して、神のことばを聞こうとすることには常に危険が伴います。ほかの誰かから安易な方法で、神の声を聞こうとするところにワナがあります。さらに、神の名を用いて、個人や教会に、誤った”預言”を語るとしたら、その人たちは重い責任を問われることになります。
健全な態度
それでも、神がご自身の御心に従って、特定の状況で、特定の人々を通して、具体的な導きを示すために、個人的に、あるいは教会に語りかけることがあると信じます。しかし、私たちが意識を向けるべきは、聖霊と日々親しく歩むことです。天の父の御心に従って生きることの中に答えがあります。神は、私たちに一人ひとりに直接語ってくださる方だからです。
1.毎日、聖書を読み、祈り、神の語りかけに耳を傾けることが大切です。
・多くの場合、聖霊は自然な方法で、私たちに語りかけられます。
・生活のすべての場面で、聖霊とともに歩むことが大切です。
・自分の利己的な願望を手放し、神の御心を求めること大切です。
2.神の語りかけに応えて、それを行うことが大切です。
・間違った考えや態度を改めるように示されるかもしれません。
・誰かとの和解するように示されるかもしれません。
・誰かを励ますように導かれるかもしれません。
・誰かに何かを与えるように示されるかもしれません。
・誰かにキリストを証しするように示されるかもしれません。
3.啓示が与えられたとしても、注意深く謙虚であるべきです。
・「神に示された」、「神に語られた」と、安易に断言すべきではありません。
・しばらくは、自分の中だけにとどめて、祈り続けることが賢明です。
・信頼できる教会のリーダーに吟味してもらうことも必要かもしれません。
・上に書いたように、安易に神の名を語る”預言”、安易に成功や繁栄を語る”預言”は警戒すべきです。
主イエスは、荒野で誘惑を受けた時に、悪魔が差し出した安易な解決策、安易な成功への手段をすべて退けました。ゲツセマネの園で祈られた時、旧約聖書の預言を成就するために、十字架の道を選ばれたのです。主イエスは、復活するために、死ななければならなかったのです。
私たちは、主イエスの姿から学ぶべきではないでしょうか。聖書は、神の計画の中に生きるために、私たちが自分自身を放棄するように求めてます。しかし、それは、私たちを神のいのちによって、豊かに生かすためなのです。”預言”のメッセージが、聖書の教えから離れて、犠牲の伴わない、安易に繁栄と祝福だけを語るものであるならば、疑問を持つべきです。
神は私たちの普段の生活の中で、聖書のことばと祈りを通して、静かに語りかけてくださる方です。特定の状況で、神が誰かを通して預言的に、私たちに語られることもあると思います。私たちが、いつも良き羊飼いの声を聞いているなら、そのメッセージが神からのものかどうか聞き分けることができるはずです。聖書は、私たちの人生を通して、また教会を通して、聖霊の賜物の豊かな現われを求めるようにと勧めています。しかし、それは私たちが自分自身を聖霊の宮として主権者である神にささげ、明け渡した結果でないとなりません。イエスは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と語られました。私たちが、キリストの愛を受け取って、神の国を福音を伝えるために、この壊れた世界に出て行くときに、聖霊は私たちに不思議な方法で語りかけ、私たちの能力を超えた方法で働いてくださると信じます。