私たちは、異言を今の時代も有効な聖霊の賜物の一つして理解しています。一方で、異言だけが聖霊のバプテスマの外的なしるしであるとは主張しません。また、異言の祈りが有益であることを認めますが、異言だけをことさらに強調することはしません。
パウロは、異言の祈りが、異言を語る人と神の間の超自然的なコミュニケーションの手段であると教えています。 私たちの内に住まわれる聖霊が、私たちの唇を通して直接神様に語りかけている、その現われが異言の祈りです。私たちが知的に理解できなくても、異言の祈りには、私たちの霊と神様の霊をつなげる働きがあります。異言を認める教会の中でも、異言に関する考え方や説明の仕方は異なりますが、私たちは、個人の祈りの生活において、異言の祈りが有益であることを強調します。
◆コリント人への手紙第一14章
●異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。(2節)
●異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。(4節)
●もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。 それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。(14節~15節)
●私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。 しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。(18節~19節)
●異言で語ることを禁じてはいけません。 ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。(39節~40節)
グレイスハウスでは、新しく来られる方たちへの配慮から、公の集会の中では異言で語ることを控えるようにお願いしています。別に集まりを設け、周囲に配慮し、牧師が任命したリーダーの適切な導きの中で、異言を含む賜物を用いる場合はこの限りではありません。