終焉論を批評する: 聖霊の賜物と今日の教会

カルバリー・グローバル・ネットワークのリーダーの一人、ケレン・クリスウェルの二つの記事を翻訳しました。彼自身は継続神学に立っていますが、彼の論考は、終焉神学と継続神学の違い、健全な聖霊の働きを理解する上での助けになると思いますので、紹介します。この記事で、クリスウェルは、終焉論の論拠に対する批評を提示しています。(※)翻訳者の補足です。

https://calvarychapel.com/posts/critiquing-cessationism-the-gifts-of-the-spirit-the-church-today/

終焉論を批判する: 聖霊の賜物と今日の教会

By Kellen Criswell 2019年7月1日

このシリーズの前回の投稿で、私はその立場を支持するために一般的に保持されている主要なポイントとともに、終焉論の妥当な説明を提示しようとしました。今回の記事では、率直に、また正直に、終焉論を裏付ける論拠のいくつかの弱点に触れたいと思います。

「土台となる使徒」という主張への反論

まず、使徒の基礎的役割から終焉論を裏付ける議論には、聖書的・論理的な問題があります。聖書的に言えば、新約聖書は使徒職の二つの側面を認めているように思われます。一方では、十二人(イスカリオテのユダを除く)と使徒パウロが、教会を設立する上で独特の基礎的役割を果たしたことは確かです(エペソ2:20)。使徒の働き」の話を読めば、このことは十分に理解できます(使徒1:15-16; 21-26)。しかし一方で、新約聖書では、十二人とパウロ以外の何人かを指して使徒という言葉が使われています。例えば、アポロ(1コリント4:6-13)、ヤコブ(ガラテヤ1:19)、バルナバ(使徒14:14)、テトス(2コリント8:23)などが挙げられます。

新約聖書で使徒と呼ばれるこれらの人々のうち、霊感を受けた聖書の著者になった人はいません。しかし、彼らは神の代理人として霊感を受け聖書を書き、教会に伝えることはありませんでした。つまり、彼らはそれぞれ重要で戦略的な指導者ではありましたが、十二人とパウロが教会の設立や聖書正典の制定に重要な役割を果たしたという意味において、彼らは教会の土台となる存在ではなかったということです。このことは、少なくとも、完成された聖書正典を脅かすことなく、また使徒継承に関するローマ・カトリックの解釈につながることなく、そのような使徒たちが今日でも存在し得る可能性を示唆しているように思われます。(※私が理解している限りにおいて、カルバリーチャペルでは、特定の人々を使徒として任命したり、呼んだりすることはしていません。クリスウェル氏は、ここで使徒的賜物を持った人々を指していると思います。)

次に、この議論には論理的な問題があります。新約聖書の中で十二人とパウロ以外の人々が使徒と呼ばれている事実は、使徒職の賜物が、教会の初期においても、一般に創立使徒とみなされる少数の指導者に限定されていなかったことを示しています。多くの終焉論者は、使徒の役割の継承と啓示の賜物の継承を結びつけています。彼らの見解では、一方が他方を必然的に含意しているのです。もし、使徒職の賜物が十二人とパウロの死後、消滅したのであれば、使徒職に付随していたと推定される他の啓示的賜物もそれに応じて消滅したに違いないと彼らは主張します。

この終焉論者の論理を使えば、聖書は十二人とパウロのうちの一人に数えられていない人々が実際に使徒職の賜物を行使していたことを明白に示しているので、これらの賜物が教会の土台作りに単に関連していたわけではないことから、人々は今日でもこれらの賜物を行使できると考えるのが理にかなっています。そして、もしこれが事実であれば、新約聖書の中で使徒の働きに関連しているとされる啓示的な賜物は、今日も継続していると推定されることになります。要するに、使徒の土台となる役割に基づく終焉論者の議論は、聖書と一致するものではなく、また、多くの終焉論者がこの点に関する彼らの見解を裏付けるために用いるのと同じ論理を、逆に適用しても、反論を免れることはできないということです。

「奇跡の認証的役割論への反論

第二に、イエスと使徒の働きにおける奇跡の認証的役割(※イエスがメシアであること、また福音が真実であることの証拠としての役割)に基づく彼らの議論には問題があります。奇跡がこの意味での認証的指標として用いられたという事実は、それが唯一の目的であったということを意味しません。パウロによれば、奇跡と癒しを与える神の目的には、信者が互いに助け合い、教会の霊的成長を促すことも含まれています(1コリント12:7)。聖書は、奇跡や癒しなどに対する神の意図を、メシアや使徒の働きを証明することに限定していませんし、現代の人々にもそのような制限はないはずです。

新約聖書では、イエスや使徒たちよりもはるかに多くの人々が聖霊の奇跡的な顕現を経験しています(使徒6:8; 8:6)。パウロのコリント人への教えは、聖霊の賜物は教会にいるすべての信者が潜在的に経験するものだと断言しています(1コリント12:4-11)。ペンテコステの説教で、ペテロはヨエル2:28-32に戻り、人々が教会史の極めて重要な瞬間に耳にした異言の賜物の現れを理解するために、聖書的な解釈を示しています: 「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。」(使徒2:17a-18)。つまり、ペテロは、ペンテコステが、神への奉仕の特別な役割に選ばれた指導者たちだけでなく、それ以外の人々にも聖霊の力強い現れをもたらす時であることを告げたのです。聖霊の賜物は、今や神の民すべてに等しく与えられるようになりました。ペテロの指摘は、このような賜物を、初代教会史のごく狭い範囲で活動した、限られた少数の戦略的指導者に限定しようとする終焉論者の視点とは正反対です。

「教会史にカリスマは見られない」という主張への反論

第三に、教会史において聖霊の現れを経験した信者の事例が記録されていないという主張から、終焉論を唱えることは、明らかに根拠が乏しいものといえます。サム・ストームス博士は、「教会史における賜物」1という有益な論文でこの議論に言及しています。彼は、一世紀から五世紀にかけての地域教会におけるカリスマタ(聖霊の賜物)の現れを記録した教会史の六つの資料を引用しています1。このような終焉論に対する強力な反論を参照したい場合は、ストームス博士の論文やこのテーマに関する他の著作、また新約聖書学者で継続論者のクレイグ・キーナーによる「Miracles: The Credibility of the New Testament Accounts.」2 (※奇跡: 新約聖書の記述の信頼性)と題するより広範な著作を参照してください。2

完成した正典論への反論

第四に、完成した正典から終焉論を主張することには根拠がありません。一つは、異言や預言が、神が聖書の著者たちに霊感を与えて聖書を書かせた手段であるという証拠がないことです。むしろ、パウロは異言について、霊において神に祈り(Ⅰコリント14:14)、歌い(14:15b)、感謝し(14:16)、信者の個人的な個人的な霊的成長(4a)のために、話し手がそれまで知らなかった言語によって(14:10-14)語ることだと、明白かつ率直に説明しています。新約聖書の預言とは、自発的に(14:30)、聖書に矛盾のないメッセージを語り(14:29b)、聞く人に励まし、戒め、慰めをもたらすことです(14:3)。これらの賜物は、霊的なエリートや特別に召された人だけに許されたものではなく、老若男女を問わず(ヨエル2:28-32、Ⅰコリント11:5)、リーダーであってもなくても(1コリント14:31)、すべての信者が潜在的に経験し得るものです。もし、これらの啓示的な賜物が、教会の一世紀に、(使徒や聖書の著者だけでなく)すべての信者が経験し、明らかに霊感を受けた聖書が与えられた方法ではなかったとすれば、聖書正典が完成したときにその有用性が失われると考える理由はありません。

「完全なるもの論への反論

Ⅰコリント13:8b-9について、パウロが考えていた完全な状態とは、信者が次の時代に経験する栄光の状態のことである可能性が高いと思われます。その方が、本文の他の部分と関連する「信者の現在の状況」と一致します。信者は現在、パウロがこの聖書箇所で述べているような顔と顔を合わせた形での自己認識や 神に対する認識を持っているわけではありません。信者は、肉、目の欲、プライド、悪魔との戦いを続けながら、人生の戦場を不完全ながらも歩いているのです(Ⅰコリント13:12、1ヨハネ2:16、Ⅰペテロ5:8)。

「現代における経験の欠如」論への反論

第五に、今日、イエスの忠実な信者の多くが、ある種の聖霊の現れを経験していないという現実に基づいた終焉論の主張には根拠がありません。パウロは、Ⅰコリント12-14章に列挙されている御霊の現れを経験するためには、個人がそれを求めることが必要であると教えています。「経験の欠如は単に求めないことの結果である」という反論に対して、終焉論者は十分な説明ができません(※意訳)。パウロを通して、神は信者に「…御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(1コリント14:1)と命じておられます。このことは、人々がこれらの聖霊の顕現を経験するためには、通常、少なくとも次の二つのことが必要であることを示唆しています:(1)人間の願い(2)神の意志。御霊は御心に従って賜物を分与されますが(1コリント12:7)、神はご自分の民にこれらの賜物を願い、求めるよう呼びかけています。クリスチャンにとって、起こりえないこと、あるいは神の御心であるとさえ信じていないことを神から望むことは困難なことです。もし、人々がこれらの賜物を望むように奨励されないのであれば、私たちは、人々がこれらの賜物を経験することを期待すべきではありません。

御霊の現れを消さないように

神は教会に、御霊の現れを消さないように強く命じておられます。(Ⅰテサロニケ5:19-22、Ⅰコリント14:39-40) これらの御霊の現れは今日の教会にはなく、私たちの個人生活や集会で信者が求めたり許容したりしてはならないと人々に教えることほど、御霊と私たちの中に聖霊の賜物を与えたいという御心に反することはありません。「預言を軽んじてはならない。」(Ⅰテサロニケ5:20)のような聖書の明確な命令を守る必要がなくなったと判断するとき、そこには神学論争に勝つこと以上の問題があります。これは、聖書のすべての命令が、当時の読者と同じように、現代の信者にも適用されると言っているのではありません。しかし、新約聖書の教会に向けられたある明確な命令が、今日の教会にはもはや適用されないという結論を導き出すことの意味の重さを冷静に感じ、この問題に対する私たちの見解と実践を形成する際に真剣に受け止めなければならない。

次回の記事

この記事が、いわゆる「聖霊の賜物」についての理解と実践を進める上で、いくつかの参考になることを祈ります。次回は、このテーマに関するもう一つの主要な神学的見解である「継続主義」について説明します。その記事では、継続主義の立場の長所と短所も紹介する予定です。この記事は、CalvaryChapel.comで今後数週間のうちに掲載される予定です。

脚注:

1 Storms, Sam. “Gifts in Church History”. Sam Storms. 2013年5月22日
2 Keener, Craig. “Miracles: The Credibility of the New Testament Accounts”. Baker Academic. 2011年

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